昭和48年02月20日 朝の御理解
御理解 第63節
「一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので千人も万人もおかげを受けるようになるから、よい手本になるような信心をせよ。」
人の手本になるような信心。どうでも、人間の上から言うても、又、おかげを受けるという事の上に於いても、手本になるようなおかげを受けなければ、人はついて来ません。人がついて来るという事は、そのまま、神様のおかげを分かって、神様の願いであるところの、人間氏子が、助かっていくという事ですから。そういう信心が、出来てくるように心掛けなければいけません。
どういうような信心をさせて頂いたら、人の手本になるような信心になるだろうか。これは、私自身の事を思うても、なる程だなとこう思いますし、昨夜のご祈念の後に、昨日光昭が当番でございました。ですからお話も、皆さんに聞いて頂いておりましたが、こうようなお話をしてました。今日は何とはなしに、ご祈念をするのが、御神前に出るのが、嫌ぁな感じ、非常に億劫な感じであったと。
それでもやはり当番ですから、ご祈念しなければなりません。まぁいうならしぶしぶ御神前に出らして頂いたと。拍手をする天津祝詞大祓の言葉、又は拝詞天地書附と、まぁご祈念のいわば、形だけはそれで出来る訳です。それでもまぁ嫌々乍ら御神前に座らせて頂いて、それでもやはり御神前に額ずかせて頂いておると、祈る言葉と言うものは、やはりいつも実感しておる事、いつも言うておる事を申し上げると。
まぁ例えてお礼を申し上げる事につきましても、神様今日もお生かしのおかげを頂いて有難うございます。今日も一日ご用にお使い回しを頂きまして、有難うございますと言うて、お礼を申させて頂いておりましたら、何とはなしに有難うなって、ご祈念させて頂いてよかったと思うたという話をしております。私はそれを聞かせて頂いてね、信心というものは、そのような風にして、本当な事が分かり、本当な信心に進んで行くんだと思うんです。誰でもお参りでも、そうでしょう。ご祈念でもそうです。今夜はご祈念をご無礼しようごたる時がある。
今日は雨が降るから、風が吹くからえらいなぁと思うて、又床の中に入るような時もある。それでもやはりお参りをさせて頂く。ご祈念をさせて頂いておると、お参りさせて頂いてよかった。ご祈念をさせて頂いてよかったと思う心が信心だと思うです。それがおかげだと思うです。ですから、そこのところを、私は、大事にしていく。心が生き生きとして弾んでおる有り難い勿体無い。これならもうそれこそ、信心は楽しいばっかりですけれども。決してそんな時ばっかりはないという事。
これはそれこそ偽わらざる、光昭の実感だと思うし、体験を発表しておる訳です。段々信心が進んで参ります。体験の上に於いても又は信心が巧者になると言うか、と言う様な意味に於いても、いうなら詳しくなり信心とはこんなもんだと言う事も分かり。信心もいうならば幼稚園から小学校、小学校から中学校又高校、大学と言う様にです、進んで参らなければいけません。そこで私は今日思うんですけれどもね。一人がおかげを受けたので、千人も万人もおかげを受ける様になった。人の良い手本になる様な信心。
もうあっちは大学だと言うてもです、そんなら何とはなしに、光昭が昨日言っておりますように、心が神様に向かわない時がある。今日はもうご無礼したいような時がある。そう言う様な時、そう言う様なところをです。私は神様に本気でおすがりさせて頂いて、雨が降るから風が吹くからと言う様な事で、えらいなぁ大儀だなぁと思う様なところを、私は辛抱させて頂く信心。そういう信心が出来るならばです。確かに人の手本になるような信心が出来ると思う。
どんなに例えば、よい信心が出来ましても。段々信心が巧者になって参りますと、そんなら、お参りが疎かになってくるといったようなのでは、もうそれは信心は留まっております。又そういう信心では、どんなに人物がよいと言うても、どんなに信心が詳しゅうなっておると言うても、もう手本にはなりません。そうでしょうが。又それでは手本になるような、おかげにもなって来ません。
段々おかげからいうならば、力を頂き光を頂き、お徳を受けて行くという信心。ですから私共の場合ですね、私のこれは信心を申しますなら様々な時があった。幼稚園から小学校、中学校と段々こう進ませて頂いたけれども。私はそういう信心をです、何か辛抱で貫いたというものが有るという事だと思うです。例えて言うと、光昭ならずとも私共でもです。御神前に出ることが億劫な感じがする時がないではない。御結界に奉仕をさせて頂く事が、いつも有り難いとばかりは思われん。
けれども段々おかげを頂いて、そんなら御神前に額ずいた途端に、何とはなしに神様に交流するものを感ずる。私共の場合御結界にここに座らせて頂く、もう座ったが最後何かもうそこから根が生えたようなものを感ずる。ここに座る迄はです。何とはなしに億劫だなと思うような時があるけれども。それはその過程に於いてです、やはり御結界に座らせて頂いても、何時間座っとっても、ひとつも有り難くなれない時代があったけれども、辛抱していくうちにです。
もうここへ座ったら途端に、ここがやっぱり一番有り難い所だなと感じれるようになる。御神前に額ずかせて頂いてもです。座った途端に神様と、いうならばお話合いが出来るような気持ちが頂けれるという事は、やはり過去の信心に於いてです。その信心の程度程度に応じて、分かっておる事も、又は修行させて頂いておる事も、それは違いますけれども。その都度都度に億劫な時もありゃ、御神前に座る事が、嫌ぁな様な時もあるんですけれども。お参りさせて頂くのが。
今日はご無礼しようかという様な時もありましたけれども。そこを辛抱し抜いたと言う所に、いうならば千人も万人も助かるようなおかげ。そういう働きになって来たのだとこう思うのです。その人が例えば大学生だから、あの人の信心な素晴らしいと言う事ではないのです。その人がいかにそこの所を辛抱し抜いていっておるかと言う事。そういう信心が、私は一粒万倍のおかげになると思うです。ですから光昭の信心を、幼稚園と致しましょうか。私の信心を大学と致しましょうか。
その一貫しておるものはです、神様へ心を向けさせて頂いていうなら、光昭じゃないですけれども、御祈念をさせて頂いて良かったという事なんです。それは神様のお喜びというか、神様のお心が、こちらへ伝わってくるのです。例えば実感も何もない。今日もお生かしのおかげを頂いて有難うございます。今日もお使い廻しを頂いて有難うござます。それは、いうならば空事のような言葉でしょう。
ご祈念中に嫌ぁな思いで言いよるのですから。けれどもそれを繰り返し唱えておるうちにです、段々心が有り難いという事になってきたとこう言うのです。ですからそれは実もなからなければ、真もない。けれどもですそこを繰り返し辛抱させて頂いておるところから、おかげが受けられるというのは、毎朝私がお食事中に、茶の間で御飯を頂きます。すると必ず嫁が、聡子を連れて来ます。孫をそして私の御飯頂きよる所の横へ、こうやって寝かせてくれる。
さあお爺ちゃまにご挨拶をしなさい。と言う訳です。私も御飯頂き止めてから、何かこう言う訳です。まぁオンゴオンゴ言う訳です。そすと子供もつられて、オンゴオンゴ言うです。はぁご挨拶が出来たて言うて皆んなが喜ぶ。そんなもんじゃないでしょうか。それからと言うて、一年たっても二年たっても、オンゴオンゴ言うとったんじゃいけませんものね。這うごつもならにゃ出来ん、立つごつもならにゃ出来ん、歩かせて頂けれるようにもならにゃ出来ん。
いたずらもするようになりましょうけれども、段々信心の成長というものがあって、まぁ五つになり、六つになった頃には、真似事にでもお爺ちゃん、肩を叩いてあげましょうと言うような事にもなってくるでしょう。そこにです私は、神様と私共の交いというものがあると思うのです。それは訳の分からないような事であっても、実感もないのだけれども。御祈念するのは、何か嫌ぁな感じだけれども、やはり決まり通りに、天津祝詞も大祓も、そして拝詞も天地書附も。
いうならば定められた時間だけ、御神前に座らせて頂いておるというだけでです。御祈念をご無礼せんでよかった、おかげ頂いてよかったと。何やら実もなければ、真もないのだけれども、それを感じるとこう言うです。それは私共体験から言うても、ほんにそうだと思うです。訳の分からんオンゴオンゴ言うておるだけでもです、神様が喜んで下さるのですから。そういう信心が段々育っていく。小学校に中学校に進んでいく。それは中学校は中学校なりに、高校は高校なりにです。
やはり億劫を感ずるような事もありましょうけれども。それを一貫して辛抱し抜いて、段々信心が向上して行ったというのでなからなければ、人の手本になるような信心にはなりませんし、又人の手本になるようなおかげも続かないと思うです。不思議に信心が少し巧者になって参ります。人からあの人の信心は素晴らしいと言われるようになる頃からです。例えばお参りをしょうごとないと言うか、ご祈念をしようごとないと言うか、そういう時には、あぁこれは、もう神乍らと言うか。
所謂信心が段々横着になってドライになってきます。割り切って考えるようになります。それは自分は割り切るから心にも引掛らないでしょう。けれどももう信心はそこで留まっておるのですから是では人はついちゃ来ません。所謂千人も万人もおかげを受けるようなと言う事にはなりません。今合楽で言われておる本当に和賀心時代をです。自分の周辺に広げて行こうと言うても、それこそ家内でも子供でもそれではついちゃ来ません。それで和賀心時代を創るなんていう様な事は、とても出来ません。
私がそして私一家がそして私の周辺にですそれを広げていく。言わば手本に成る様な信心というのはそこに辛抱が一貫する。お天気の日だけは有り難い楽に参られるけれども。雨の日は風の日はと言う様な事では、もう手本になる信心にはなりません。と言う事は自分自身がおかげが留まったと言う事になります。信心は限りなく進めて行きたいだから只失敗しながら続くというのでなくてです。そう言う所を信心辛抱のおかげを頂いて、本当の意味に於いてそのお手本になり。
一粒万倍のおかげを受けさせて貰えれる。人もなる程と合点してついて来るような信心を、させて頂くと言う事にならなければ、神願成就と言う様な事とても、大それた事になります。五つの願い必その事は願っておる。その神願成就のおかげを頂かせて頂く為には、私共先ず自分の自分の身をもって、自分の一家をもってです。私の信心について来てくれるような信心をしなければならない。それ一番大事な事は、辛抱だと言う事を聞いて頂きましたね。
どうぞ。